2012年10月26日 星期五

談「臉」(顔を語る)

文/宮本百合子

「不管是哪種人,都會漸漸地與身旁的人越來越像」,我認為這種傳言大概是存在的吧;我把這個故事告訴一個熟識的人,意外地,就算我們完全都不像,他還是吃了一驚。我們互相找了找彼此的臉上有哪些特徵相似,但也無法清楚地說出個所以然。事實上長相與表情是很微妙的,沒有任何人的臉部細節是完全都會一樣的。
而就算是自己的臉,我認為也無法確切說出自己到底長得是什麼樣子,大概每個人都覺得自己長得很有特色吧,想到這裡也只能一笑置之了。


喜歡與討厭照相的人理由大概各有所不同,而我個人則是討厭閃光燈,總會讓肢體不自覺地僵硬。即使盡量不讓自己面向有閃光燈的方向,但像音樂會等會很靠近閃光燈的地方,總想著會不會馬上就要閃了而身體變得僵硬。
如果在深夜中不經意在鏡中看見自己的臉,總覺得詭異,所以都不會仔細去看。有次因為在半夜肚子餓,下樓往客廳方向時,左手邊正好有面鏡子,憑藉著走廊微弱的燈光,瞥見自己的側臉。雖然心裡明白那是自己的臉,但是在那幽暗的鏡中深處,那雙看著自己的眼睛令人感到不舒服。直到把電燈開啟,可以清楚觀看後四周才移動腳步前進。
那麼,一張「好看的臉」應該是怎樣的相貌呢?──能夠或多或少,對於自身以外的事物感同身受、而溢於言表時的表情,我覺得是非常美麗的。

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顔を語る

宮本百合子

 どんなひとでも、はたからは、その人に似た人というものの話をきかされているだろうと思う。よく知っている者が、その似たというところの話されているのをきくと、案外、まるで似てもいないのに、とびっくりするようなこともある。私たちが互にひとの顔だちなどのどんな特徴をどうつかんでいるのかということは、一応はっきりしていそうでなかなかはっきり(きま)ってしまえないものなのでもあろう。顔だちと、顔つきとは実に、微妙にからまりあっていて、而も一つのものではないのだから。
 自分の顔なんか、迚も自分で話せるものではないと思う。随分大した顔付をしていることもあるんでしょうから、どうぞあしからずと笑うしかないようなところがある。

 写真ずきと写真ぎらいとの心持の理由はいろいろあるだろう。私はフラッシュがいやで、つい堅くなる。自分にそれが向けられていなくても、音楽会などで近いところでそら、もうじきフラッシュが閃くぞと思うと、体が堅くなって来る。

 深夜の鏡にチラリとうつる自分の顔は、気味がわるくて、ちゃんと視たことがない。真夜中、おなかが空いて、茶の間へおりて来ると左手に丁度鏡があって、廊下からのぼんやりした光りで、その鈍く光る面をチラリと自分の横顔が掠める。それは自分の顔とわかっている。でも、その薄ぐらい中で覗きこんだら、覗きこむ自分の二つの眼も気味わるい。電燈をひねるまで真直を見て足さぐりで進む。

 人間のいい顔とはどんな顔つきをさすだろう。大なり小なり、自分以外のものごとにしんからの同感が溢れている時の顔、それはなかなか美しいものだと感じる。

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